その人の「お金」の基準は、みんな違って、みんないい。
「お金」の基準にとらわれない。
誰しも、友人や知り合いの人の、お金のベースや金銭感覚って、すごく気になると思っていて。
ふとした瞬間のランチの値段への感覚や、買い物をするときの即決できる価格のライン、貯金がいくらあったら安心かなど、もう顔や体のつくりレベルで個性があり、ぜんぜん違うもの、だと思っている。
友人に、とても向き合う「お金」のレベルが高いなあ、と感心する子がいる。
身につけるものは百貨店のメインフロアに並ぶデザイナーブランドが当たり前。
足を運ぶレストランやカフェは、ビジネスの会食で使われそうなハイクラスな場所に週何回も足繁く通う。(もはや誰と行っているんだろう)
何気なく映る旅行のシーンでさらりと出てくるビジネスクラスの写真。
そして何より、そして親も業界では有名な起業家、ときた。
なんと、そんな日常がInstagramで垣間見えるのです。あら大変。
昔は。
そんな生まれの違いに、またスタートラインの時点で負け確定をしているような自分のポジションを恨んだり、どうやったら上り詰められるのかギラギラしていた頃(笑)もあるけれど、決してそうではない、とも思ってきていて。
ハイクラスなことがスタンダードであることは、それだけ求められることもきっとハイレベルだ。
センスや立ち居振る舞い、そしてそこで展開する会話の質も、きっと、幼少の頃からきちんと鍛錬されている、と思う。(なんだか子供の頃から社交界を意識するような世界と似ているのかな、笑)。レベルの高い(あくまで一般ピーポーと比較した場合)価値を当たり前に消費できる環境にいるということは、自然とそれ以上の価値を自分も提供するということが求められていく、気がする。
(もちろん、妄想だけど。)
多分、その人に与えられているスタートの基本設定は、みんな異なっているが故に、それはお金はもちろん、生活環境や日常的に消費する価値の大きさもみんな違うんだと思う。そればっかりは変えられないし、違って当たり前。
それでも、自分が享受しているものは何なのか、そしてそれに対してどんなことが自分は生み出せるのか、ということに集中しさえすれば、きっと他人の得ている価値を羨んだりしている暇はないはずなのだ。
5万円の時計をつける自分と、50万円の時計をつけるあの子を比較して落ち込むのではなく、5万円の時計をつけた自分がその時計よりも価値のあることが何ができるんだろう、を考えてみる。
自分の持っている「お金」のリソースに落胆しそうになったときは、それでも今持っているものと、自分がこの世界に対して貢献できたり、価値を上げられることを考えよう。そんな「お金」を意識しない日常になったとき、きっと、手元にはたくさんのお金が付いてくる、気がする。ついてくると、いいなあ。